< 映画、演劇 鑑賞 >
・映画『田舎司祭の日記』
その村はいつも道がぬかるみ、新しく来た若い司祭は自転車で教区の家々を回る。彼の体は病んでおり坂道は自転車を押して歩く。
少女達が放る執心の礫が彼の周りに砕けるのを、そのきれいな目に映す。黒衣は聖と賎の容れ物。
そんな或る日、屋敷に住む生ける屍の伯爵夫人は、彼が引導を渡す形で逝く。早逝の息子を惜しむ生涯だった(仮に息子が生きて、その父同様の男に育っても母として愛せただろうか)。異物のように村から排除された司祭は自分が、寄る辺ない若さの儘死ぬであろう事も日記に綴り、 程なく「それは聖寵だ」と云い残し死ぬ。司祭の日記を読む者は無いかもしれない。が、彼が日記を綴る時、神がそれを読んでいた。 (まめ)
・演劇「未練の幽霊と怪物」
ー『挫波』『敦賀』ー
『挫波(ザハ)』の後シテの動きは、舞台端に僧の形に屈むひとりの謡い手の声に調伏される足取り。そして地鎮、地固め。『敦賀』の後シテは津波となって原子炉建屋に押し寄せる日があろうとも、後も強弱を変えながらリズムを繰り返す永劫の波。
舞台後方の三人囃子の真中は黒Tに緑。松か。天井に貼り付いた広い四角い灯が皓皓と、ワキ(旅人の役)とアイ(通りがかりの住民の役)の寄る辺なさを明確にする。魂が荒ぶるシテが死者なのは能の決まりだが、この能のワキとアイは「漂泊する」または「一所を巡る」意志を仮の体で表しているようだ。
小型の三角コーンのような三つの黄色い灯が導く橋掛りを、シテ、ワキ、アイそれぞれが渡り、黒い揚幕の内に没した。 (まめ)
・映画 フェリーニ『青春群像』
主人公の青年が列車で町を出る時、その駅で働く少年は尋く。「どうして?楽しかったのに」
二人が初めて出会ったのは或る午前3時の路上。夜遊び帰りの青年と、駅へ仕事に向かう少年はその日に言葉を交わし、それからも冬の星をベンチに並んで探す日などがあった。
そして汽車がやって来て、さようなら、と云った。
鞄ひとつで町を出る青年と、駅夫として老いる少年は、時が来ればそれぞれ神に召される…少年の微笑みはそう云っていた。シリウスで会えるね、と。(まめ)
・映画『breadwinner 』
この時代にこの地に
父母に生を受けた子らの
子供時代は短く文字に昏く
許されるなら千年万年の誇り高き物語を
王子と王女の声が諳んじるだろう
ここに子を生んだ母の慟哭
子を成した事以外に無力の父。
子の緑の目が
千年万年の月暈のように
荒地を見晴かす。 (まめ)
・映画『由宇子の天秤』
劇伴の無い『由宇子の天秤』を観る間中、私には二つの音楽が聞こえていた。卑怯者の唄、ひとでなしの唄 。
それは他人や肉親に聞かされ、また自分が他人や肉親へ奏でた事のある二つの唄。 (まめ)
・映画『やさしい女』
路で摘んだ白い花を車に盛って走り去る若いカップル。それを見た女は両腕に抱えた同じ花を路に、どさりと捨て、夫の車に戻る。
「花が嫌いかい?」
「私が?」(この白い花を飾る場所があるの?)
結婚生活もまだ短い或る日、女が死ぬ。夫の見下ろす棺の顔は、寝間以外で笑ったり喋ったりしなかった生きている女と、そう違いがなく美しいが、もう二度と抱けない。それを惜しむ涙を男は流した。 (まめ)
・映画『友だちのうちはどこ?』
「綺麗だろう。この家の扉も40年前にわしが作って少しも変わらない。この頃は皆、鉄のドアに変えたがる。一生壊れないと言うが一生がそんなに長いものかね」
…勘違いと弱い足で不完全な道案内をした老人は、それでも足元に咲く野の花を少年に教えた、詩人の末裔だった。
その一輪の白い花を摘んで友達のノートに挟み、山のつづら折りの道を何度も駆け上り、駆け下りした少年の半日も一篇の詩だった。 (まめ)